2006年06月10日

 新緑の頃・続き 5

 (5月25日、記す)

 今日になって、わかったことがある。
 祖母の死が間近に迫っていることだけが、私を動揺させたのではない。私だっていつ何が起こるかはわからない。それは誰に対しても言えることである。
 もし容態が同じ状況でも、祖母が身を起こして、以前のような口調で「おかえり」と話しかけてくれていたら(それは無理なことだったが)、あれほど混乱はしなかったのだろう。そう考えたとき、ここ2週間の自分の状態を理解したように思う。

 自分が動くときに力を使うように、その力は相手に注がれるということ。
 何かを表現するときに使われた力は、相手に取り込まれ得るということ。

 私は力が欲しかったのだ。
 祖母の自然な動きを止めさせられていた事実で、私の気力はすり減っていた。末期の治療について、祖母にどうして欲しいのか(必要ならばLiving Will)を書き記してもらうべきだったと思い、その難しさについても考え、思い巡らせる全てのことも結局、今となっては何もできないという壁にぶつかるだけだった。
 そうやって考えが堂々巡りをしていた時にハンドボールを見に行きたいと思ったのは、大きな躍動のある(身近な)競技を見ることで、憔悴し気力を失っていた自分の中に力を与えてくれると感じていたからなのだと思う。
 祖母の見送りから帰ってきて、ふとプルシェンコ選手の演技を見たときも、彼がその指先まで使う力、全ての動きに使われるエネルギーのようなものが、今まで以上に大きく大きく感じられた。私が疲れてきっていたからだと思うと同時に、彼が発する力を受け取っていたのからなのだとも思う。

 今の私はそうやって、人の動きを見たり、音楽を聴いたり、心をうつものを自分の中に取り入れることで力を得ながら、少しずつ本来の自分に戻している。

 だから・・・
 逆に、今私が書き綴ることで使う力は、きっと誰かの中にも取り込まれていく。
 誰かを応援したいという気持ちや声は、きっと相手の中にも取り込まれていく。
 そう信じて、これを記している。
posted by yuki at 08:24| Comment(0) | TrackBack(0) | My Personal Diary | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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